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奈良井宿の旅(和訳)

ジャブリ 葉月


 奈良井の駅を降りると、外国人と日本人の旅行者の長い列が最初に目に入ってきた。電車はすでにローカル線、J Rのスイカカードではカバーされない超過料金の支払いのため、彼らは駅の窓口で列を作っていた。この人たちはどこから、なぜやってきたのだろう、と私は思った。彼らは、この小さな古い町に何を求めているのだろう。

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 奈良井、またの名を奈良井宿。板橋から始まり守山に至る中山道(なかせんどう)の中心に位置し、江戸時代(1603-1868)の街道としての姿を今日に至るまで残している。この街道が京都と江戸(東京の古名)を往来する物資を輸送する主な手段として使われていた頃、奈良井は商用の旅行者で賑わう大きな宿場町だった。当時の面影はいまだによく残されている。約一キロメートルある奈良井宿には、三百軒弱の住民が生活しながら町の保存をしている。この状態は今、日本で最も良好な伝統的街並み保存の例だと言われている。



 私がこの街について初めて聞いたのは、フェイスブックのフィードで写真を見ていた時だった。ぴったりと横並びに立つ伝統的な外観の街並みが写っていた。通りの上の方には緑の小さな山があった。映画のセット以外に、こんな江戸時代のような風景が残っているなんて、信じられなかった。この写真を見てすぐに、そこに行って自分の目でそれを見ることに決めた。他の旅行者も、インターネットのどこかで似た様な写真を見て、同じことを考えたのだろうか。



 私は、二晩ほど予約した小さな民宿、「しまだ」に荷物を預けた。それから駅に向かった。自販機で水を買って、宿の方向へと戻って行った。奈良井宿には、水場組合が管理する伝統的な古い水場が六箇所あるそうだ。住民が普段生活に利用している水だという。もし望むなら旅行者も、空いたペットボトルにこの水を補充して飲むことができるのだった。

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 奈良井の通りはとても幅が狭かった。駅の側、通りの起点近くに、私が見た写真が撮られたと思われる場所があった。店の看板が同じだったので気づいたのだ。ある夫婦が赤ん坊をベビーカーに放ったまま、写真撮影をしていた。もしかすると、ここは旅行者の間で有名なフォトスポットなのだろうか。彼らも私のようにその写真を見たのだろうか。彼らはあまりにのめり込んでいたので、尋ねなかった。赤ん坊は泣き続けたが、彼らは完全に無視していた。彼らは執拗に写真を撮っていた。それは通りを撮影するのにいい構図だと思ったので、私は自分の番が回ってくるのを待った。だが、それは来なかった。

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 彼らが満足して行ってしまうまで、私は左側にある店、「島屋漆器店」の中で待つことにした。私はテーブルウェアを見るのが好きだ。皿、盆、箸など日本の伝統的な漆製品があった。お店の女性が出てきて、挨拶をしてくれた。

 彼女は、私がどこから来たのか、どんな物を探しているのか尋ねた。私は、自分が千葉市から来て、そろいの汁椀を探していると答えた。店の中を自由に見ていいかと聞くと、彼女はどうぞと答えた。汁椀はすぐに見つかった。形は二種類あり、また赤と黒の二色があった。

「あら、黒の椀は素敵ですね。」

 「実は、完全な黒ではないんです。赤の上に茶色の黒みがかった漆、溜漆(ためうるし)を重ねてあるんです。」

 よく見てみると、それは本当だった。元の部分は赤くて、部分的にその色が透けて見えた。

 「美しいですね。二ついただきます、それから赤の椀も二つ。」

 それを包んでくれる間に、彼女はお店について話してくれた。このお店は、元々、座卓を作っていた。座卓というのは、日本の伝統的な和室用の足の短いテーブルで、昔は日常の飲食、あるいは読んだり書き物をしたりといった生活の中心だった。今日では、和室のある家がほとんどないから、座卓の需要も減ってしまった。それで販売を漆の小物類に切り替えたのだった。

 「現代人の生活は、変わりました。」

 彼女は少し悲しそうだった。私は彼女に、店の外にある古いベンチは何かと尋ねた。彼女は、それは2020年(令和2年)に蔵を解体した時の梁(はり)だと答えた。この蔵は、江戸時代後期(1800年代)の伝統的な建築物だった。あきらかに、この場所には長い歴史があった。お店としての歴史も長く、開店は1972年(昭和47年)だったので、創業からすでに五十年以上が経っていると、女性は語ってくれた。

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 彼女の夫である店主は、元々は塗師(ぬりし)だった。彼は、漆製品の修理もする。彼は寛大にも、私の買った商品を自宅に無料配送してあげると言ってくれた。

 私は彼らにお礼を述べ、さようならを言って、店の外に出た。通りでは、赤ん坊が相変わらず泣きわめいていたが、夫婦はまだその場に足が生えたかのように写真を撮っていた。



 旅行者は今日、おそらくソーシャルメディアのためだけに写真を撮るのかもしれない。写真を撮り終えると、彼らは行ってしまう。彼らのほとんどは地元の人とコミュニケーションを取ろうとすらしない。彼らは視覚的な記録のためにそこにいて、インターネットで不特定多数の人からもらう「いいね」を期待している。彼らは地元の人たちを悲しい気持ちにさせ、おそらく時には、彼らに憤りを与えることもあるだろうと、私は思った。



 私はさらに町を歩き回った。通りには非常に伝統的な形式の日本家屋が立ち並んでいた。それらは木造だった。ほとんどは古いものだったが、一部は新しく建てられたものだった。これらの家には前庭がなかった。入り口は皆、引き戸になっていた。通りに直接面していて、それが整然として統一された印象を醸し出しているように、私には思えた。この市の建築基準法があるので、街の景観は現代的な外観を持った新築の家々に乱されないのだった。

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 一軒の店舗が私の目を引いた。店の前に愛らしい人形と可愛い絵や切り絵のポストカードが陳列されていた。「藤屋土産物店」、なるほど、では中に入ってみよう!

 「こんにちは。素敵な品物ですね。見せていただいても宜しいですか。」と私は店の主人に尋ねた。

 「もちろんです、ご自由にどうぞ」、女性が答えた。



 その店は小さかったが、手作り品のあたたかさで満ちていた。確かに土産物店だったが、同時にそれは素敵な展示室だった。小さいが手の込んだある種の木製人形があった。

 「こちらは何でしょうか。」

 「からくり玩具です。売り物ではございません。全て主人が手作りしたものです、皆、オリジナル作品です。主人は八年前に他界しましたので、もう作ることができないのです。それで、展示するだけにしてあるのです。」

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 それから彼女は、作品の背景について語り始めた。彼女の夫の名前は中西康二(1934-2014)。長野県上田市生まれ、切り絵、木版画、合羽摺り(ステンシル)に精通した芸術家だ。カラクリ玩具、土人形、土鈴のオリジナル作品も得意としていた。

 彼は、作品制作のため、常に最大限の努力を惜しまなかった。販売は、卸売をせず直売のみにこだわっていた。彼女は夫に時々は気を楽にしたら、と勧めたが、彼は、苦労するのが楽しいのだと言って、言うことを聞かなかった。彼の考え方は彼女の気楽な考え方とは異なっていたが、彼女はそれでも彼を支えてきた。

 「夫の制作したネズミの土鈴は2008年(平成20年)の官製年賀状ハガキの干支として選ばれたんですよ。とても忙しい年でした。」と彼女は誇りを持って振り返った。彼女によると、2013年(平成25年)の巳年にも、もう一度選ばれている。

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 彼女は店頭に展示されている土で出来た子守人形について説明した。中西氏はいったん十体の人形を作ると、絵の具でそれぞれに個性のある顔を描いていた。同じ顔は一つとしてない。それは中西氏の意図だった。彼は、一つひとつが違う、そのことが作品に素晴らしさを与えるのだと言っていた。

 木製のカラクリ玩具である「びっくりネズミ」。作品の横についたレバーを押したり引いたりすると、二匹のネズミがかわるがわる物陰から顔を出して、おばあさんを驚かせる。彼女は中西氏に、効率のためにおばあさんの顔は手彫りではなく、絵の具を使って手描きで描いてしまったらいいのではないかと言ったが、彼は断った。「手彫りの方が味わいがあるから」というのがその理由だった。中西氏は若い頃、木彫を習得したので、手彫りは彼にとって、苦ではなかったのだ。彼は、彫ることに労を惜しまなかった。

 中西氏の作品はとても愛された。「七つの子」もカラスの木製からくり人形で、最も人気のあった作品だ。この作品一点だけのために何年も待っている顧客が何人もいた。

 私はそれを見せてもらった。とても愛らしい7羽の赤ちゃんカラスが木の上の一列に並んで、レバーを動かすと一斉に口を開けたり閉じたりするのだ!

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 切り絵と版画も素晴らしかった。着物を着て遊んでいる子ども、暖炉を囲んで団欒する家族、奈良井の通りを晴れた日に犬を散歩させる子ども。それらは素晴らしいノスタルジアを醸し出し、日本の古き良き時代を思わせた。

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 彼女は、実は中西氏のカラクリ人形が他のお店やおもちゃメーカーに模倣されたことがあったと語った。おもちゃ協会に誰かがそのことを報告して、アイディアとデザインの模倣が明らかになったのだった。中西氏と彼女は、彼らが中西氏のからくり人形を店舗で購入し、バラバラに分解したのではないかと推測した。実は、中西氏はお店を始めた1976年に、作品の意匠や構造を日本特許庁に登録していた。それゆえ、作品の盗用が20年間は公的に禁止されていたのだった。しかしながら、模倣する権利がないのに、おそらく彼らはそれらがすでに特許を取得している事実を知らずに模倣したのだった。こういった状況にもかかわらず、中西氏は性格的に他者との争いごとを好まなかったため、裁判に発展させることはしなかったと、彼女は語った。なんて悲しいことだろう、と私はため息をついた。芸術家が何年もかけて努力を実らせても、他者の卑怯な行為がそれに水を差してしまうことがある。だが、中西氏はそのような行為を相手にせず、愛らしいオリジナル作品を作り続けたのだ。それは素晴らしいことではないか、と私は思った。

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 「もしこの話を本か何かで記事にされるなら、木製のカラクリ人形はもう販売できないと明示していただけますか?夫は亡くなりましたので、もう作ることができないのです。もし誰かが遠くから買いに来たら、申し訳ありませんので。今日はこのようなお話を聞いてくださって、どうもありがとうございました。」と言って、彼女は微笑んだ。


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 私は女主人に対する感謝、彼女が夫と彼女の個人的な物語を語ってくれたことへの感謝の気持ちでいっぱいになって、店を後にした。外の空気はすでに冷たかったが、私の心は温かった。奈良井のことを思う時、私はいつもこの女性とこのお店のことを思い出すだろう。

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(どちらの取材も2022年11月8日に行われました。現在、この記事内で記述された状況は、取材時とは異なる可能性があります。また、藤屋は通常、店内商品の撮影を禁止しています。私は、藤屋のご許可を得た上で、中西康二氏の作品を当記事に掲載致しました。これらの作品の著作権は全て藤屋にあり、許可のない複製はすべて法律で禁止されています。また、文中に示したとおり、藤屋では木製のカラクリ玩具は現在、一切販売していません。)



<情報>

島屋漆器店
〒399-6303 長野県塩尻市大字奈良井618-1

藤屋土産物店
〒399-6303 長野県塩尻市奈良井420-1

藤屋土産物店 公式サイト
http://fujiya8.s205.xrea.com/



<中西康二氏プロフィール>

中西康二(奈良井宿)

切り絵、木版画、合羽摺り(ステンシル)。
1936-2014年。長野県上田市生まれ。


父・兄が画家だった環境も影響して子供時代から絵筆や彫刻に親しんだ。中学卒業後、木工を習い始める。中央大学経済学部卒業後、東京でサラリーマン生活を送った後、昭和51年、父の実家である中山道奈良井宿で手作りの店を開く。からくり玩具をはじめ、土人形、土鈴、木版、切り絵の葉書などオリジナル作品を制作し販売。土鈴は二回、年賀切手の図案に採用された(ねずみ年−2008年、巳年−2013年)。



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©️2026 Hazuki Jabri
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